Evernoteの雑記の放出1
その当時私の足を動かしていたのは、怒りや憤りだったのだと思う。
さあ。
2015年までの自分は「LGBTの人達が生きやすい社会をつくる」などと息巻いていた。
この息巻き感の発端は、同性の女の子を好きになった中学高校時代の経験。これいわゆる原体験というやつだった。
当事者意識もあいまって、学部の当時はエネルギッシュかつ前のめりに活動をしていた。たとえばデモに参加したり学会に顔を出して喧々諤々の議論の輪に入ったり。がんばってたよなあと思う。
冒頭の問いに対して、「社会に対する怒りだったんだよ」と答えることはとても簡単なんだけれど(昔はよく言ってた)、あらためて問いたいのは、その「社会」って何なのよ、みたいなこと。
当時、私の知り合いには誰一人として私の性的指向性を批判する人はいなかったし、カミングアウトをして否定された経験もない。そりゃあインターネットを覗けば私のような性的指向のある人に対してホモフォビックな声をあげる人はいたのだけれど、それは生活空間にダイレクトに響くほどの脅威であるわけでは特になかった。
のに、私は何かに対していつも怒っていたし、その怒りが自分の足を動かしていたことは紛れもない事実。
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卒業に際して、これからどうするのか考えなければならない機会が増えた。
当時の「社会を変えてやるんだ!」というスタンスは自分の中からきれいになくなっている。どれだけ時間をかけて考えても、「社会」をどうこうしたいという意図は生まれてこない。
「社会」という抽象的な言葉ではなく、「特定の誰か」に置き換えてみたところで、意図のなさは変わらないのだ。別に「特定の誰か」を変えたい・誰かに何かを届けたいという気持ちもない。
これじゃあ就活もなかなか難しいよなということでいったんストップしている就職活動。
当時好きだった女の子とのあれこれは相変わらずふんわりと思い出として残っているけれど、今はLGBTのことに対する強烈なこだわりや「社会的なコト」からは解き放されている。
(もうちょっと言語化できそう)
(やっぱやめた)
怒りや憤りから生まれるモチベーションから解放された今、あらためて自分は何をしたいのだろう。問うてみるとやりたいことがないわけではないのだな、というか、あることに気付く。
書くこと、あと書くことについて考える人と一緒にいること
「書く」ということに対してこだわりがあるっぽい。過去1年間をふり返れば、「書くこと」に葛藤し続けた時間だった。
ちょうど一年前の日記。
2016年2月17日
201今日も、言葉を失っている。うまく書けないもどかしさは、体を揺する。
【言語化できない不安】
自分の想いを言語化できないことは、自分にとって最も怖いことだ。
想いに適した(最適な)「言葉」が見つからないとき、話の構成がうまく組み立てられないとき、私はどうしようもなく不安な気持ちになる。想いに最適な言葉を探すことは、私にとってとても大事な作業である。
2016年2月24日
毎日のようにふりかえりの冒頭に「言葉が出ない」と書いている。適切な言葉を探し、丁寧に丁寧に言葉を選ぼうとするあまりに、自分の想いに見合った言葉を見つけるのが日に日に難しくなってきている。
こんな感じでここ1年は言葉に関してごくごくこだわっている自分がいることに気がつく。勉強会やったり(続かなかったけど)、インターンしてる会社で自らライティングをやりたいと手を挙げたり(未だに赤字だらけだけれど)。
夢にまで見るほどに「書くこと」に対する想いがこんなにも募るのになぜ書けないのか
— 田中千尋 (@SheeepBark) 2017年1月26日
いや、むしろ、この異常なまでに募った想いのことを書けばよいのでは
— 田中千尋 (@SheeepBark) 2017年1月26日
一人で夜中に悶々としたり。
同性と付き合っていることに対する強烈な自己意識は薄れ、次はあらたに「書くこと」に対する強い気持ちが生まれている今。
自分のアウトプットに対して「よくできた」なんて納得感をもつことは殆どないけれど、よく考えたら最初からできる人なんて稀だよな。
職業としてのライティングとはまた違う自己表現としてのライティング。まずはEvernoteに溜まっている雑記を放出させていくことからはじめて行きたいと思う。