未定(仮)

大学院を休学して日々悶々と内省中

経験主義者かく語りき

エントリーしていた企業から続けざまにお祈りメールがきた、研究が全く進まない、大学院生活、教授間のダブルバインドに挟まれている…辛いし鬱だ…死にたい…という記事を書こうとしていた。だけれど、書いている途中でばかばかしくなってやめた。

 

高飛車なスタンスではあったと思うが正直なところ、就活では絶対にすんなりと内定を貰えると踏んでいたし、研究だってなんの障壁もなくうまくいくと思っていた。予想していない展開がやってきていることに対して、ショックの気持ちは隠せない。一時期は大学にいくことが億劫すぎて、働いているゲストハウスのお庭で日がな金魚を見つめていることもあった。登校拒否である。24歳にもなっていい大人が登校拒否だなんて!そんな欝々とした気分で最近の日々を送っている。

 

だけれど一方で、もう一人の自分もいるのだ。こいつは、思い通りにいかないなーと思うときにひょっこり出てくる。これからのことについてどうなるやら、予想外の展開の先がどうなるか興味深く見守っている。ある意味先の見えなさを面白がっているみたいで、予定調和でなければないほど、テンションがあがり元気になる。落ち込んだとき、こいつの存在は結構頼もしい。

 

こいつが自分の中に住み始めたのは、去年大学院を休学しているときのこと。休学中には私は、起業する気なんてさらさらないのに、なぜか起業を目指す学生たちのコミュニティに所属していた。そのときに出会ったたくさんの起業家の卵たちからこの「予定調和を好まない」というマインドを受け継いだ。今世界には、AIだとかビットコインだとかいう新しい概念が現れてきていて、世界の中の当たり前を徐々にひっくり返すときに世界がどうなっていくのかわからない。見通しがつかないことって結構こわい。だけれど想像もつかない、描くことのできない未来の中に放り出されること好む性質の奴らは、大変に興奮した面持ちで先のことを語るのだ。わくわくした、躍動感をもって。

 

突然だけれど、私には学校の先生になるという夢がある。実は教員免許はすでに持っているので今就活をやめて先生になるということだってできるのだけれど、そうじゃない。大学を卒業してそのまま学校で働いたって伝えられることは多くない。(大学を卒業してそのまま先生になる人を否定しているわけじゃないです…!)先生になるとしたら、身体全部を使って世界を体験して、その経験を使って子どもたちと学んでいきたいし、自分の経験を子どもたちのもつクリエイティビティと掛け合わせて、クラスや学校をつくっていきたい。

 

世界を体験するには、社会に放り込まれていくことが欠かせないのかもなと思う。今は自分は学生という立場なので、少なくとも守られていてあたたかいし、たぶん「光」の部分しか知らない。これからは、少々つらくとも「闇」といわれる部分だって見たいし、理不尽な経験をして歯がゆさを感じる経験だってしてみたい(ほんとはしたくないけれど)。

 

持論になるけれど、体験は少ないよりも多いほうがいいし、薄いよりも濃いほうがいいと思ってる。入社を希望していた企業からお祈りメールが来たことも、研究が迷走してあらぬ方向へ走っていっていることも、教授間のダブルバインドに挟まれる経験も、畑を耕すひとつぶひとつぶの肥やしとして、私の「生きる」を豊かにしてくれているのかもしれないな、書いているうちにそう思えてきた。

 

お祈りメールに一憂する自分は、すごく小さな視点でしか物事を考えることができていなかったのかもしれない。なんというか、もう少し大きい目線でものを見てもいいんじゃないのか。そんなことを考えた土曜の朝。

 

今日は演劇の稽古だ!たのしみだー!