未定(仮)

大学院を休学して日々悶々と内省中

大人になるということ

我が家の日曜日の晩ごはんのメニューは必ず鍋と決まっている。どれだけ暑い夏だろうと変わらない。母親が献立を考える手間を省きたいという理由もあったのだろう、これは小さいころからの我が家のしきたりだったので「日曜の夜といえば鍋」というのが私の脳内には刷り込まれている。

こないだ久々に大阪の実家に戻って、家族で鍋を囲んでいるときのこと。母親から言われた一言にぎょっとした。

「もうそろそろアンタ、サザエさんの年齢を追いこすんじゃない?」

あれ。サザエさんってもっと年上の印象があったんだけどなァ…アレレーなどといいながら、私は鍋の野菜を器へとよそった。だが、内心若干の動揺を隠すことができず、手元が狂い、器をもつ指の上に汁がこぼれた。アツい。

子どもの頃は、ハタチを過ぎたらきっと、マキアージュのCMに出ているような美しくて、器量もよくて、自信がみなぎるような人になるのだと思っていた。その訪れはハタチになるとともに誰しも無条件にやってくるのだと。

ヒールなんか履いて少しだけ背を高くして、髪をクルリとオシャレに巻き、唇には淡いピンクの口紅を上品にキュッと塗って、なんにも困ったことなんてないんだよというかのように、いつでもほほ笑んでいる大人。

小学生の私が描いていた大人のイメージはこんな感じだった。だけれど、小学校の頃の千尋少女、ごめんよ、君の夢を打ち砕いてしまって。君の描いていた麗しの女性にはなれませんでした。

麗しの女性どころか。高3の妹に前髪を切ってもらったのだけれど、彼女の手元が狂ったらしい、出来上がったのは眉毛の遥か上に毛先のある超がつくほどのパッツンヘアー。これは本当にひどい。どれくらいひどいかっていうと、クレラップのCMに出ている女の子の前髪くらいひどい。巻きたくとも、こちとら巻ける髪すらねえ。麗しとは程遠い。

一定の年齢になれば、後ろから押し出されるところてんみたいに無条件に到達するはずだった「理想の大人像」から、今の私は程遠いところにいるのだけれど、それはそれでいいとも思っていて。小学生の頃の私が見たら今の私のあり方には、さぞがっかりすることだろうと思うけれど、ごめんね。

というのも、なんでかって。それは、去年の休学の時間と、ただいま猛がんばり中の就職活動を通して、かっこいい大人達をたくさん知ったから。その人たちのだいたいは、昔の自分が夢見てたような「理想の大人像」と異なっている。しかし、本当に豊かで、多様で、色鮮やかだ。そして彼らはみんな共通して、彼ら自身が向き合っている仕事に価値があると本気で信じている。

自分の関わっている仕事を最高のものにするぞ、という気概と、目標に向かう推進力。その揺るぎのない信念がとてもかっこいい。まだ「働く」ということがどういうことかよくわかっていないけれど、そんな大人達の背中を見て、素直に憧れた。私もこうなりたい。

なんにも困ることがないよというようにいつでも微笑んでいる大人よりも、髪の毛を振り乱しながらも、自分の向き合う仕事に意味があると信じて、試行錯誤する大人のほうが何倍もかっこいいんじゃないのか、と今では思うようになった。

果たして自分は、あんなまっすぐな目をしたかっこいい大人になれるのだろうかと少し不安になる。

あと1ヶ月と少しで私は25歳になって、サザエさんの年齢を追い越す。そして、彼女より2つ年上になる2018年。ようやく社会人になる(はず)。

そのとき、この仕事に関わっていることが誇らしいんだ、この事業こそ最高なんだと私は言い切きれるようになっているのだろうか。