未定(仮)

大学院を休学して日々悶々と内省中

プライベートとパブリックの間

彼のいうとおり移動というのは思考するのにもってこいの時間だなあと思う。

 

彼というのは、風のように暮らす私の先輩で、「移動」をテーマにして地域のさまざまな人とかかわりを持っている。とてもフットワークが軽くて、facebookにあげられる投稿には、いつもその前と違う場所について書かれている。「あれ、こないだまで和歌山にいたのに、今は鳥取か」みたいな。

 

そんな彼は移動時間に考え事がはかどるとよくいう。

 

なぜ移動が思考にいいのか、私なりに考えてみる。それは大きな問いにぶちあたったときには細分化して考えることが大切なのと似ている。

 

移動のときには、思考をするための最小単位、つまり【区切り】が明確になることが多いからではないか。

 

区切りにはいくつかの種類があるように思う。ひとつめは、ある地点から別の場所に移るという意味の空間物理的な区切り目。それとふたつめは「9月8日から3日間」というように滞在時間という時間的な区切りという意味ももつ。それと、どこかに出かけるときには、何かの用事があって出かけることが多いので、その出先の「テーマ」みたいなものも自ずと特定されやすい。というのが移動が提供してくれる3つの区切り。

 

そういう意味でいえば、私の今回の移動は「東京での3日間―学会と旧友との再会―」とかいうひとつの区切り方ができそう。


ちなみに今私はまさに移動の最中で、愛知に向かう高速バスの中でこれを書いている。普段の移動のときに乗るバスは夜行便なもんで、乗り込むやいなやすぐにバチっと電気を消されてしまうし、そもそも乗り込んだときには結構疲れていて思考をする間もなく眠りに落ちる、そうせざるをえない。

 

けれど珍しく今回は夕方出発の便に乗っていて、まだそれなりに元気だし、ノートパソコンを開いてカタカタとキーボード音を立てることを咎める雰囲気もない。

 

車内には、これからどこかへ行く人とどこかへ帰る人とのふたつの属性の人達がいて、SNSをしたりビールを嗜んだり眠ったり、とそれぞれに移動の時間をそれなりに満喫している(ように見える)。私はこれからまた故郷ではない新たな場所に「行く」属性の乗客。


最初に書きたいと思っていたことから逸れていってしまうなあ。

 

最初は東京滞在で起こったことについてまとめてふりかえろうと思っていたのだけれど、今の私の関心事は、右斜め前に座っている女の子とその前の男の人と、それまた前の女の子がそろいもそろって前の席に裸足のさきっちょを引っかけてくつろいでいる姿に目がいってしまっている。


バス、主に高速バスは乗客に対してプライベートとパブリックの真ん中のスタイルでいることを提案してくる。例えば椅子をリクライニングにできたり、充電できるコンセントがあるように、どこか家のような空間を提供してくれる。だけれど、あまりに大きな声でお喋りしたり、鼻くそをほじったり汗ふきシートで体全体を拭きまくるみたいな極度に私的な行為はお呼びでない。

 

確かにくつろげはするんだけれど、ゆきすぎない、プライベートとパブリックの間にある、微妙な緊張感がある空間が個人的には好きだ。今まであまり深く考えたことがなかったけれど、高速バスが好きでよく乗るのはこの節度のあるだらけ具合を高速バスという空間的、機能的な仕組みが担保してくれているからなのかもしれない。

 

とここまで書いたところで、さっき目にとまった三人の乗客、前の座席の下部に足を引っかける姿は節度のあるだらけ感だろうということで、彼ら彼女らの絶妙なくつろぎ具合に「イイね!」を送りたい。

 

そう考えるとパブリックとプライベートの間にある空間って、実は今結構増えていて、時代の流れに即しているのかもしれない。例えば高速バスと同じく乗り物という観点でいえば、ライドシェアサービスがある。知らない人と相乗りで別の場所までゆくライドシェアは、割と長時間のドライブをともにするけれど、そこでの振る舞いも崩れすぎないラフさが求められる。あとは、シェアハウスとかゲストハウスとかいう場所も、どこかそんな「私」と「公」の間にありそうな感じがする。

 

そして自分の暮らし方をふりかえってみれば、東京に滞在していたときのすみかはシェアハウスだったし、今はスタッフとしてゲストハウスに住み込んでいる。そういう意味では、全く考えてはなかったのけれど、場を選ぶときには、無意識のうちにそのふたつの間にあるものをとってるんだと知る。

 

「私」だけに閉じない、かといって「公」ほど開けてもいない、その間にあるほんのちょっと緊張感のあるだらけ感を好んでいるのかもなあ、と知る。

 

そしてたぶんこれから先、長期的であれ、短期的であれ、自分の身を置く場所を選ぶときにも、「公」と「私」のバランス感を判断基準にしてゆくのだろうなと想像する。

 

なんか、ダラダラとまとまらない文章を書いてしまった。そろそろ眠たいので、私も隣の乗客みたいに少しだらんとして寝ようかな。