重ねる
その植物がやってきたのは、私が20歳になったころのことだったから、5年前のことだったと思う。たしか、誕生日だからといって部活の同級生がプレゼントしてくれたものだったような。
もらったはいいものの、世話の方法もわからないし、そもそも世話をしなきゃいけないかどうかもわからないもんだから、しばらくその植物はベランダに放って置きっぱなしに。
しかしどうやら世話はしなければいけなかったようで、そのあいだ、水をやり、寒い日には部屋の中に入れてあげてくれていたのは母親だった。
「あんたが世話しないから仕事が増えたわ~」なんてぶつくさ言いながらも、その植物に水をやる母親は、そう不機嫌でもないように見えた(少なくとも私の目からは)。ありがたいことに、その植物がやってきてから5年もの間、ずっと水をやり続けてくれている。
世話はしないくせに、名づけだけはした。植物名が「パキラ」、前の二文字をとって「パキさん」という。単純な命名。
うやうやしい敬称をつけられ、ほとんどひとつの人格として扱われているその植物は、世話人のおかげで、今もすくすくと育っている。その成長速度たるやすごいもので、実家に帰省するたびに、アッと声をあげるほど。
さっき定規をもってきて背丈を測ってみると、85センチ。葉っぱはぼうぼう、小さな芽も枝の先から生えていたりして。衰えることを知らずにすくすくと伸び続ける姿を見るのは、なんだか気持ちのよいもんだ。
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天気や植物、川の流れとかいう自然現象と、自分の状況を重ねて考える。それは、昔の時代の占いみたいなものに似てるのかも。ほら、亀の甲羅に入ったヒビを見てこれからの1年の穀物の実り具合を予測するみたいな感じで。
「新しい芽が生えてきたから、修士論文の研究でも新しいアイデアが見つかるかもしれない」
「でも根元のほうがブヨブヨして腐ってきているから、就職活動のほうもやっぱり難航するのかもなあ」
自分の姿を投影して、元気になってみたり、落ち込んでみたりする。本当に人間というのは―というより自分はというべきだけれど―都合がいいなと思うし、人間の都合で、勝手に投影された植物のほうからしてみれば、いい迷惑だろうと思う。
何かと自分とを重ね合わせて、そのあいまの境界線が曖昧になってくると、自分と自然とは根っこのほうで繋がっているような気分になってくる。今日もあの植物が生きているし、よくわからんけど自分だって大丈夫だという気分になる。
就職できなくても、修論書けなくても、とりあえず死ぬことはなさそうだ、と思う。なぜなら、きっとそれでも、あの植物も生きてるし、あそこの川は流れてるしなあ。と。
融合、というほど大したものでもないけれど、自然からエネルギーをもらいながら、何はともあれ、ちびちびと暮らしている。