「これからどんどん変わっていきますよ」という言葉(後編)
さて、足元に忍び寄る影は、私のところで足を止め、「あんた、一人で来たんかー。高校生か?」と話しかけてきたので、丁重に「いいえ、私は高校生ではありません」」とそのミスを訂正した。
(なんのこっちゃわからん方はこちらへどうぞ…前編 )
23歳になってもなお、高校生に見えるらしい。
少し白髪の混じる 初老の方は、私の座る場所の少し離れた場所に座った。
その方は私が宮城に来るのが初めてであるということを知ると、少し不思議そうに「ここへ来る時期をなぜわざわざ今にしたのか」と尋ねてきた。
つまり、その方の言いたいことというのは、震災があって4年半という時間が経ったこのタイミングに、初めて宮城にやってくることに対して純粋に疑問を持ったということらしい。
少し世間話をしたあと、その方は本題に入るかのような口調で「石巻には行く予定か」と聞いてこられた。
私は正直に、行かないつもりであると答えた。
その方は私の返答を受け「そうか」と答えると、私が何も言わないうちに震災のときのことについて語り始めた。
心地よい風の吹き抜ける松島海岸の芝生で私は、ただただその方の話に耳を傾けていた。
友人の半分を震災で亡くしたこと、自分の家族は幸い命に別状はなかったが、自身のご友人は30代にして、両親、子ども、妻など家族の全てを失い、現在一人で暮らしていること。
また、大川小学校という特に被害の大きかった地域にある学校では、全校児童の7割に当たる児童74名、教員10名が犠牲となり、4年半経った今も、県や市に対して訴訟が行われ、裁判が続いていること。
大切な人、家を失ったことによるやりきれなさから、アルコールを摂取し続け、酒なくしては生きていけない人、鬱病にかかる人、また、自ら命を絶ってしまう人が震災を経て急激に増え、心のケアの必要性が唱えられていること。
「ここの街の住人は、そういった喪失を抱えて生きる人がほとんどすべてなんだよ」
その方は最後にそう言って、ふう、と息をついた。
仙台の駅から松島に来るまでの間、すれ違った名前も顔も知らない沢山の人のことを思い出す。
それぞれに、それぞれの空白を、震災への思いを心のどこかに持ち続けながら生きていることを想像する。
4年半前にあった震災のあったとき、あれだけ一人おんおんと泣いたのに、事実について知ろうとする気持ちがすっかりと薄れていた自分を恥じた。
私は石巻に行かなきゃなんないな、と強く思った。
その場所を歩こう。
歩いて、知ろう。
知ることは、自分の責務であるとさえ思った。
しかしながら、腹が減ってはなんちゃらという言葉にもあるように、まずは昼食を取らねばならないということで、松島で牡蠣フライを食べ、道中で売られていた牡蠣せんべい(写真)をむさぼり腹ごしらえを済ませた。
余談ですが、松島の定食屋さんの客引きが上手すぎるという話をしてもいいですか。
そのやり方というのも、信号の向こうにある店先から、人懐っこそうな店員さんが大きく手招きをしているんです。
何か用でもあるのかな、と思って寄って行ったが最後、店員さんは食後のアイスのサービス券を強引に手渡し、「はい、おひとりさまでーす」と叫び、私の背中をそっと店内に押しやるという、入る店を吟味する隙を与えず建物の中へと通してしまう手口の巧妙さ。
やられたけれど、美味しかったからいい。
昼ご飯を済ませたあと、電車に揺られること40分、石巻の駅に辿り着いた。
写真を撮りながら、街を歩くことにする。
街のいたるところに、このように震災時の津波の到達水位を知らせる表示がある。
上の写真は、仙台空港にあった津波の水位の表示でHighest of Tsunamiという文言にもあるように、震災時の津波の最高水位を示したもので、それを空港で目にしたときにも思うところがあったが、実際に趣いた現地で目にしたそれのほうがよりリアリティがあるように思えた。
この下の表示は石巻の駅から海の方へ3分ほど歩いた場所にあったもので、まさに、この場所にこれだけの水が押し寄せたということを示している。
自動販売機の右奥が少し写っているが、ここはさらの空き地となっている。
おそらく4年半前には何かしらの建物が経っていて、そこで生活を営む人がいたのだろうと想像することは難くない。
津波は、河川を逆流して街を飲み込んだそうだ。
これは、旧北上川のほとりにある場所で撮ったもので、マンションか家かの住居の入り口付近なのだろうと思われる。
当たり前に営まれていた暮らしが、当たり前でなくなってしまったその瞬間が確かに存在したのだ。
奥の空き地には雑草がぼうぼうと長く伸ているのが写真からもわかるように、この場所がこのように更地になってからたくさんの時間が経ったことを、この草の長さが示しているだろう。
他にも少しだけ写真を撮ったので下に載せたいと思います。
オレンジの花が咲いている空き地
崩れた建物
空はまぶしいほど青い
町を散策したあと、石巻にある震災の情報館へと訪れる。
「これからどんどん変わっていきますよ」
という現地のスタッフの方の言葉が心強かった。
万物は流転する。
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今回の旅の始まりのきっかけは、ゼミで指導教官をしてくださっている教授から「それ発表してこれば?今年は宮城だよ」という言葉だった。
『ともに、おこす』
その学会は、毎年大きなテーマを掲げて行われている。
今年のテーマは『ともに、おこす』
いわずもがな東日本大震災を取り巻く様々な事象が含意されている。
今回東北の地を訪れたことの意味は、震災が「本当に」「ここで」起こったと知ることができた、この点ひとつに尽きるのではないかと思う。
テレビや新聞、ラジオなどの報道・ニュースを通して私たちは世の中の出来事を知る。
それらのメディアの役割は非常に大きい、おかげで私たちは足を運ぶことのできない場所の出来事を知ることができるようになった。
しかしそれと同時にそれらのメディアは私たちを、真実を知った「つもり」にさせる、しかもごくごく簡単に。
今回私は被災地に足を運んだ。
現地の人と話をした。
町のコンクリートの壁についた泥。
元の形状がわからないほど曲がったレール。
自分の目で見て確かめて、そこで初めてわかったことがあった。
本当にこの場所で震災があったということ。
テレビやネットで見た震災のあれこれは、ただどこか遠い星の出来事を映しているようで、私はドラマか映画を見るかのようにその報道を眺めていた。
どうにもこうにもあのときの自分にとってどうでもいい他人事だったらしい、ということにも初めて気づいた。
文章にまとまりがなくなってきて、何を言いたいのかわからなくなってきたのでそろそろ締めます。
別に、すべての人々が被災地に行くべきだとかメディアは悪者だ、と言いたいわけではない。
そのときの自分は、そう感じたというだけのこと。
別にそれを人に押し付けるでも強要することもしない。
帰りは音楽を聴いて帰ってきた。
歌詞のもつ意味合いをひとつひとつ噛み締めた。
何度も何度も繰り返し、この曲を聴く。
ひとつひとつ もうひとつと わすれて またふりだしから はじめるきぼうのうた
今日も、生きていく。
*1:歌は、開始から44秒後に始まります