「これからどんどん変わっていきますよ」という言葉(前編)
――――――――――――――――――――――――――――――――
宮城県から帰ってきました、ただいま。
今回は学会で発表するという目的のためにはるばる東北まで足を伸ばしてきました。
ひさびさに書こうという気になったので、新しくブログを開設しました。
突然なんだけれども、私は普段の生活において、不特定多数の誰かに向けて長文を書くということをしない。
なぜか。
理由は至極簡単で、ただ面倒くさいから。
普段の習慣として、個人的に日記を書くということはしているけれども、それはあくまで私的な思考メモというレベルのもので、誰か他者に読ませられるようなものではない。
誰かに向けて発信をするときには、文法が間違っていないか、てにをはは正しく使われていて、読み手に伝わりやすいものであるのか、というようにある程度の推敲を行わなければならない。
自分の想いを伝えたいときはあるけれど、その行程が結構面倒だったりする。
しかし、今回の宮城県への旅の中で自分が感じたこと、また見たことについて、もしかすると、というレベルではなく発信する義務があるのではないか、と考えたので、少し長くなるかもしれないけれど、書きます。
(前半はただの旅の思い出なので、読み飛ばしてくださっても構わないです)
結構長くなってしまいそうなので、記事をいくつかに分けることにします。
―――――――――――――――――――――――――――――――-――――-
今回の旅は本来、上にも書いたように仙台で開かれるとある学会で発表をするためのものでした。
出発の前日までてんてこまいになりながら発表の資料を作っていた。
コーヒーと菓子パンを食べ続け、始発で大学に行って終電で帰るという日が続き、正直なところ結構苦しくて、飛行機も宿もとったけど、もう休んじまおうかな、とさえ思っていた。
しかしいろんな人の協力のおかげで無事ポスターが完成した。
これは、指し棒代わりにと思って、会場のキャンパス内で拾った木(結局使いませんでした)。
学会での具体的な出来事は、この記事で伝えたいことの本筋とはずれるので、これ以上は書きませんが、指し棒として木の枝を使っていいくらいにはゆるやかな学会でした。
話を戻すと、この旅は2泊3日を予定しており、初日は予定を一日空けていた。
1日目、朝の8時半に仙台へ着いた。
2、3日目は学会で一日大学のほうにいなければならないので、この初日の時間をどのように使うか、朝の8時半の仙台空港で、母の持たせてくれた手巻きずしを朝食として食べながら考えていた。
結果的なことから先に言えば、紆余曲折を経て、昼過ぎから晩にかけての時間を私は石巻で過ごした。
当初、計画の段階では、というか当日の朝ごはんの時点においても、石巻に行こうという予定はなかったし、行くつもりもなかった。
その場所について思いつかなかったというよりは、どちらかというと選択的に「行かないこと」にしていた。
つまり、石巻に行くことを避けていたのだった。
4年前の3月11日、チャンネル回しても回しても、家や車、生活の場が流されていく映像が流れていて、そいう悲惨な状況を目にして、他人事だとは思えずに、そういうことが現実で起こっているのだと信じたくなくて、ベッドの中で一日泣いていた。
翌日は、父と服を買いに行こうという約束をしていたが、そんなことを私はしたくない、不謹慎だ、と言って部屋に閉じこもって父に迷惑をかけたことを今でもたまに思い出す。
それから、いつか石巻に行って、震災の状況、そしてそこからの歩みを見に行かなければならないと思っていたのだけれど、なかなか勇気が出なかった。
そういうことがあったという現実に向き合いたくなかった。
だから、場所が遠い、金がかかる、時間を空けられないなんていうことを言い訳にして、ずっとその問題を遠巻きにしていた。
そのうちに、そういった気持ちも時間の経過とともに薄れていって、正直言うと、すっかり忘れていた。
忘れていたのだ。
だから、空いている時間の初日、めいっぱい観光しようと思った。
空港でずんだシェイクを売る、お店のスタッフの方がばりばりの東北弁でお勧めだと教えてくれた松島へ向かう。
松島や あゝ 松島や 松島や (松尾芭蕉)
日本三景である松島で初日の時間を優雅に過ごそうと思って、海が見える芝生の広場で座り込んでいた矢先、突然に私のほうへ近づいてくる影に気が付く。
この人との出会いによって、私は石巻へ向かうこととなるのであった。
(次へ続く)