学校の保健室みたいなところ
思っていたよりもメンタルが弱かった。
「そんなにしんどいなら戻ってきたらいいやんか」
おいおいと泣く私の背中をさすりながら、パートナーはそう言った。
自分が書いたwebのコラム記事のview数は日々伸びている。ということは、誰かがサイトに訪れ私の記事を読んでくれているのだろう、そのことはわかる。
だが、それが生の人間に届いているという実感がない。どんな人が読み、読んだ結果、何を感じるのか、それが見えてこないのだ。
朝から夕方まで黙って仕事をして、業務が終われば自宅に帰る。住んでいるのはシェアハウスだが、住人同士 お互いに顔を合わせることはほとんどない。一日の中で、交わすのは「この部分はこれこれを意図して書いています」などと会社の編集さんから受ける指摘に対して返す言葉。ほぼそれだけ。
休みの日には、部屋の掃除、読書、料理。心が晴れやかなときには、ワークショップに出かけたりもする。友人がいないので、一人で行って一人で帰ってくる。
東京での生活、会社でのライティング、すべては自らが望んでやり始めたことだというのに、いつの間にか自分を苦しめるものになっている。誰にも話すことのできない、行き場のなくなった感情は自分の内側に積もっていく。
仕事でも話すことがない、休日にも人と話さない。
こんな日々を送っているとどうなるかというと、人が怖くなる。少し人と話すだけでも、ギアをマックスまで引き上げなければならず、ひどく疲弊する。うまく人とコミュニケーションを取れなくなる。例えるならば、長年油をささず錆びれて動けなくなってしまった機械みたいに。
そんなときに、地元に住むパートナーと喧嘩をしてしまい、対話をするために地元に戻ることになった。長くなるので喧嘩の内容については、またのちほど。
無事に和解をして、話をしているうちに、自分でもわからなくなるほどに涙が出てきた。仕事でうまく成果を出せないこと、友人がいないこと、頼れる先がないこと、一人で過ごしていること、など東京での日々のあれこれについて、堰を切ったように話をした。言葉が口から出てはじめて、ああ、自分はつらかったんだな、と気付く。
そんなに苦しいなら戻っておいで、と声をかけてくれたのはこのときのこと。
自分が自分らしく生きるためには、人と感情を交わし合うような対話の時間が必要なんだと、ここ1ヶ月人を避けて暮らした孤高の生活をとおして知る。
やりたいことはその時々に変わる。でも、ころころと変わるその「やりたいこと」の裏側には一貫性がある。「誰もこぼれ落ちない、境界線のないゆるやかなつながりのある社会をつくる」という2月に掲げたビジョンは今も変わってない。
社会的に孤立していなくても心理的に孤立している人はいる。ついぞさっきまでの自分のように。一度負った傷をかばうようにして、どんどん殻を厚くしてその内側にこもっていった自分。
そんな心理的に孤立している人をとりこぼしてしまわないような、あたたかい場所。存在があるだけで肯定されるような場所。つくれないかなあ。学校の保健室みたいな、無条件に受け入れてくれるところ。
全部必要なプロセスだってわかる。
人との関係をはぐくむこと
人とのかかわりの中で、結局のところ最後に残されるのは対話なんだと、今日あらためて実感した。
悲しみや怒りの感情から、反応的に即座に行動するのではなく、自分の中に湧きあがった感情の奥にどんな願いやニーズがあるのかを観察する。いったん立ち止まって俯瞰することが、たぶん人との関係において超だいじだ。
過剰に自己否定に陥ることも、相手に責任をなすりつけることも簡単にできちゃうんだけれど、その安易さをとると「本当の問題」が見えにくくなる。
恋人や家族とかいう、距離の近い親密な他者に対しては、自分の心理的なコミットメントの度合いが非常に高いし、自分とは全く別の他者として切り離しができない分、ブワッっと火が燃え上がるが如く、感情的に立ちやすい。
だからこそ、徹底的なくらい対話が必要になってくるんだろうなあ。できるだけ相手も、自分も(ここ大事)傷つけないような非暴力的なコミュニケーションが望まれるわけ。聴くことでしか関係は開かれていかないよなあという実感が今ここにある。たぶんこれからも変わらない。
困難なことも、苦しいことも、その渦中にいるときはその状態から早く抜けたくて堪らないし、ゲロでも吐きたい気分になるけれど、長いスパンで見ると全部成長のために必要なプロセスだよな、とここ最近何度も思う。
でも不快なものは見ないふりして蓋したいし、向き合わずに通り過ぎたい。
適当に効率的に、さっさと取り除きたいという気持ちもよくわかる。
ある人のいう「半径5メートルの現実は、自分が創りだしている」という言葉が間違っていなければ、現実は自分の意図と意識次第で創り変えていける。
この3つを通して、私は大切な人との関係をはぐくみたい。
1、相手の話を遮らずに、最後まで聴いて、一旦受け止めること
2、相手の意見を頭からぶった切らず、かつ、自分の意見も主張すること
3、そして妥協や我慢という形ではなく、「互いが」「本当に意図する」関係、あるいは状況を模索し創りだしていくこと
とりとめのない話
自分のもといた場所や環境から離れ、大きく移動をする瞬間が節目であるとするならば、私は今ひとつの節目を迎えようとしているといえよう。16日間の旅を終えた後、地元で1週間ほど休養をとり(常に休養であるといわれればそうなのであるが)、そのあと仕事を含む様々な用事をこなすために1週間だけ東京へ戻ってきた。そして今日、大事な用事のために再び東京を旅立ち、福岡へと向かっている。
現在、広島駅へと向かう電車の中でこれを書いている。乗り換えが17回、到着までになんと27時間36分かかるという壮大な電車旅である。今、世間はお盆の時期で、金のない学生にとって飛行機や新幹線のチケットは手の出ない代物である。
そこで、そんな貧乏学生の旅行を支えてくれるのが青春18きっぷだ。青春18きっぷを使うと、東京-福岡間をわずか4500円弱で移動することができる。その恩恵を今存分に受け取っている。
電車の中では、絵を描いたり、音楽を聴いたり、ぐっときた曲の歌詞をノートに書き写したり、寝たり、というループを繰り返していたものの、早朝の新大久保駅の始発電車に飛び乗ってから15時間が経ち、そろそろこのループだけでは退屈しのぎが間に合わなくなってきたので、ブログでも書こうかと思う。いつも通り特に伝えたいことはなにもない。ただの自分のためだけのライフログである。
【役割の話】
旅から帰ってきてから2週間弱という時間を経て、記憶能力に欠陥を抱える自分は旅で起こった出来事をそろそろすっかりと忘れ、よっぽど意識をしない限りは思い出すこともなくなってしまった。
「すべての物事には意味がある」という言葉がもし本当なのだとすれば、あの16日間には何らかの重要な意味があったはずである。旅の記憶が薄れていく中で、その意味が一体何だったのかという答えも見つからず、一人置いてけぼりをくらった子どものような気分で日々を過ごす。
大事なのは、「自ら選んで」一部になっているということ。
選択して、自分の状態に対して、自覚的になっていくこと。
人との中でなにかの役割をもって機能したいという思いがいま、とても強い。
あの子たちといた時間をつい、思い出してしまう。
幸せな時間。
【「自分らしくある」ことの輝かしさと難しさ】
自分らしく生きることで誰かを傷つけてしまうことがあると知ったとき、私はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「強さとは」という問いに対して、
「失うことを恐れず走ろうと決めたとき近くに誰かがいること」だとあるアーティストは歌った。
勇気をもって踏み出した一歩を見ている誰かがいること。
その事実に支えられて生きている。
空は青い。
どこに繋がって生きていこうかな。
何が起こるかわくわくする。
未来のことが楽しみであるという感覚は、ずっともって生きていきたい。
「生きる」と「学ぶ」をつなぐ
長らくの間、特に外部に発信したり伝えたりしたいことがなかった。これまで、日々の気づきや問いを記すのは自分だけが閲覧できる日記のみであった。気づきも問いも自身の内側にもつだけで十分だった。
「書きたいという思いが出てきたときにまた帰ってきます」といって前回の記事を更新した日からちょうど100日が経った。久しぶりにブログを書く。
長らくもち続けていた問い
つまることろ、働くとはどういうことなのだろうか。これは、奈良女子大学大学院の休学を決め、奈良の都を飛び出した今年の2月からずっと持ち続けている問いである。
学部時代は教育について勉強しており教員免許を取得済みだったので、以前は明確な意思をもつことなく自分は学校の先生になるのだろうと思っていた。しかし、強い思いもないままに、「教員免許を所持しているから」というそれだけの理由で小学校の先生になる、という道筋があまりに安易に思えたのだ。そして大学院を休学するに至る。本当にやりたいことは何なのだろうと模索する日々が始まってから、6か月が経とうとしている。
NPO法人のETIC. のMAKERS UNIVERSITYというアントレプレナーシップを謳い実践への一歩を踏み出すプログラムに参画するために大阪から上京し、まったくの新しい環境の中に身を置いている。過去の自分を知っている人は一人もいないという状況の中で、新しい人間関係を築く。自分の存在やアイデンティティを対話を通して言語化し、思考し、問い続ける日々がそこにはあった。
ひょんなことがきっかけで旅に出かけようと決める。
ヒッチハイクをする!で始まった旅
16日間の旅を終え、地元の大阪に帰ってきた。博多から出発し、翌朝に大阪のバスターミナルに降り立ったした瞬間、ひどくほっとする自分がいることに気が付く。9時間の夜行バス乗車で体はボロボロに疲れていたが、心はすがすがしいほどさっぱりとしており、自然に足は実家の方向へと赴く。
結局、ヒッチハイクをすることは一度もなかった。 ヒッチハイクをするためには、精神的にも体力的にも余裕がいるのだ。今回の旅においては、自分の中にそのような勇気や気概が発露することは一切皆無だった。
宿や訪れる場所を一切決めることなく、Peachで片道の航空券を、そしてバイト先のLITALICOで3週間のお休みをとって、東京を飛び出した。泊まる場所も、観光先もあえて決めない。こうして旅が始まった。滞在先は、沖縄と九州。持ち物はバックパックとテントと、一眼レフ。それらをひっさげた自分を乗せた飛行機が成田空港から離陸する。
沖縄では、大学の部活時代の同級生を本州から迎えもてなしたり、渡嘉敷島という離島に渡って一人シュノーケルをしたり、クリスチャンの宣教師のおばあちゃんと映画を観に行ったりして過ごした。那覇市にあるまちライブラリーで「本棚を作るDIYワークショップ」に参加したりもした。また、身寄りのない現地のおじちゃんの家に泊まらせてもらい、彼の自宅にてアダルトビデオを見せつけられる、というやや危険な目にも遭ったりした。
九州では、友人畑山菜々美さんと三浦敬洋さんが主催するキャンプでカメラマンとして写真を撮ったり、近所にある竹を切ってコップを作ったり、今年度設立された合同会社こっからという会社のオフィス兼自宅にお邪魔させてもらい、畑仕事や室内のリノベーションをお手伝いしたりした。主には、毎日温泉に入り続けた1週間だった。
旅を通じて新たな自分を見つける
自らの深い部分にアクセスする瞬間が訪れることがある。それは、個人的には、お風呂に入っていたり、海に潜っていたり、川べりに腰かけ木々の奏でる風の音に耳を傾けていたりと、水や自然が近くにある瞬間であることが圧倒的に多い。
旅の中でいくつかの気づきがあった。「弱い自分の発見」がその中のひとつとしてある。東京に上京してきてから今に至るまで、自分のやりたいことを言語化できず葛藤し悩むことはあったものの、その中でもなぜか「自分は必ず大丈夫である」という根拠のない自信があった。「何が」「どう」大丈夫なのかは全くわからないが、どんなにほかの人から問い詰められようと、とにかく「大丈夫だ」と胸を張って居直ることができていた。
だが、今回の旅の中で、根拠のない自信がどこか深い場所に隠れてしまい、その代わりに根拠のない不安と恐怖が胸の中に広がったときがあった。具体的にいうと、ちょうど本州から来た部活の同期たちと別れて、沖縄にひとり残された瞬間である。自身の将来についての焦燥感や、周囲との比較、付き合っているパートナーとの喧嘩、誰も自分と繋がる人はいないという孤独感。無力感、不甲斐なさ。そんなネガティブな感情に支配され、何をする気も起きずぐったりとしてただただ日々を消費した2日間の時間があった。
大丈夫でない自分の存在を知ったとき、胸の中に小さな驚きがあった。今までは、しなやかで折れにくいと思っていた自分の中に、弱くてふがいないだけの自分の存在を見つける。
旅中で最もつらく、弱っていたときの日記。DAY6。ネガティヴモードに入っているときには、筋道立てて物事を整理し、言語化することができなくなってしまう。「自分のだめさに笑う」「吐きそう」「勝手に一人で傷ついている」など、旅を終えた現時点では考えにくいほど過酷で切迫した精神状態だったことがうかがえる。
そして大好きな坂爪さんの言葉に救われ、少しだけ元気を取り戻す。
「生きる」と「学ぶ」をつなぐ
いらないものがそぎ落とされたときの自分が好きである。過去への執着やこだわり、提出しなければいけない課題や、人間関係におけるわだかまりなどを一旦に脇に置き、目の前にある「今」に没入する瞬間。過去でも未来でもない「今」を生きる瞬間。このとき、誰のものでもない自分の人生を生きているのだ、という実感を持つことができる。
旅を終えて二日が経つが、働くとはどういうことか、いまだその解は出ていない。しかしこの旅を通じてようやく、生涯をかけてやりたいことを明確に捉えることができた。まだ完全には言語化するには至っていないが、はっきりとした輪郭を伴ってそのイメージを持つには至っている。
「生きる」と「学ぶ」をつなぐ学校を作りたい。16日間の旅を経て、自分の胸の中に残るひとつのフレーズである。
【「生きる」と「学ぶ」をつなぐ】
場作りをしながらコミュニティをデザインするという生き方に、魅力という言葉では表現しえないほど強く惹かれる何かを感じる。
デンマークにフォルケフォイスコーレという学校がある。当時の詰め込み暗記型の教育を批判し、「生きた言葉」を使い、語り合い響きあうような対話を重ねて、自分たちをとりまく世界を学ぼう、という創始者の発案により作られた。ここでは、18歳以上の多種多様な職種、国籍の人々が集まり、対話や身体表現、読書や料理を通じて、寄宿舎で生活を共にしながら学んでいる。
旅から帰宅してから、この学校の存在を知った。今まで自分の考えていたことをまるっと体現している学校が存在していることに対して言い知れぬほどの驚きを感じた。こんな場を私も作りたいと強く思った。
まずは、ひとつずつ試験的に丁寧な場づくりすることで着実に一歩を踏み出していきたい。
「共に在ること」#sea #summer #sky #being
場づくりを共に行う仲間を募集中。
のびのびとブログを書く
今日は大阪にいる母からの手紙が届いた日でした。
胸が痛くなると同時に愛されていることへのありがたみを感じました。
それともうひとつ思ったこと。
私がやることが尊いか尊くないかということは私が決める。
あんたの人生ではない、私の人生だ。
(過激な表現)
東京で生活を始めてから3か月が経った。
ゲストハウスでの暮らしにも慣れてきた。
ああ、誰かに読まれると思うとやはりのびのびと書くことができないな。
自分の書いた文を誰にでも読むことのできるよう公開することへの恐怖を克服することができたらまた戻ってきます。
今日は住宅街の中にひっそりと息づいていたコインランドリーを見つけました。
ごうごうと音を立てて、幾人もの服や下着を洗っていた。
また明日も歩く。
「これからどんどん変わっていきますよ」という言葉(後編)
さて、足元に忍び寄る影は、私のところで足を止め、「あんた、一人で来たんかー。高校生か?」と話しかけてきたので、丁重に「いいえ、私は高校生ではありません」」とそのミスを訂正した。
(なんのこっちゃわからん方はこちらへどうぞ…前編 )
23歳になってもなお、高校生に見えるらしい。
少し白髪の混じる 初老の方は、私の座る場所の少し離れた場所に座った。
その方は私が宮城に来るのが初めてであるということを知ると、少し不思議そうに「ここへ来る時期をなぜわざわざ今にしたのか」と尋ねてきた。
つまり、その方の言いたいことというのは、震災があって4年半という時間が経ったこのタイミングに、初めて宮城にやってくることに対して純粋に疑問を持ったということらしい。
少し世間話をしたあと、その方は本題に入るかのような口調で「石巻には行く予定か」と聞いてこられた。
私は正直に、行かないつもりであると答えた。
その方は私の返答を受け「そうか」と答えると、私が何も言わないうちに震災のときのことについて語り始めた。
心地よい風の吹き抜ける松島海岸の芝生で私は、ただただその方の話に耳を傾けていた。
友人の半分を震災で亡くしたこと、自分の家族は幸い命に別状はなかったが、自身のご友人は30代にして、両親、子ども、妻など家族の全てを失い、現在一人で暮らしていること。
また、大川小学校という特に被害の大きかった地域にある学校では、全校児童の7割に当たる児童74名、教員10名が犠牲となり、4年半経った今も、県や市に対して訴訟が行われ、裁判が続いていること。
大切な人、家を失ったことによるやりきれなさから、アルコールを摂取し続け、酒なくしては生きていけない人、鬱病にかかる人、また、自ら命を絶ってしまう人が震災を経て急激に増え、心のケアの必要性が唱えられていること。
「ここの街の住人は、そういった喪失を抱えて生きる人がほとんどすべてなんだよ」
その方は最後にそう言って、ふう、と息をついた。
仙台の駅から松島に来るまでの間、すれ違った名前も顔も知らない沢山の人のことを思い出す。
それぞれに、それぞれの空白を、震災への思いを心のどこかに持ち続けながら生きていることを想像する。
4年半前にあった震災のあったとき、あれだけ一人おんおんと泣いたのに、事実について知ろうとする気持ちがすっかりと薄れていた自分を恥じた。
私は石巻に行かなきゃなんないな、と強く思った。
その場所を歩こう。
歩いて、知ろう。
知ることは、自分の責務であるとさえ思った。
しかしながら、腹が減ってはなんちゃらという言葉にもあるように、まずは昼食を取らねばならないということで、松島で牡蠣フライを食べ、道中で売られていた牡蠣せんべい(写真)をむさぼり腹ごしらえを済ませた。
余談ですが、松島の定食屋さんの客引きが上手すぎるという話をしてもいいですか。
そのやり方というのも、信号の向こうにある店先から、人懐っこそうな店員さんが大きく手招きをしているんです。
何か用でもあるのかな、と思って寄って行ったが最後、店員さんは食後のアイスのサービス券を強引に手渡し、「はい、おひとりさまでーす」と叫び、私の背中をそっと店内に押しやるという、入る店を吟味する隙を与えず建物の中へと通してしまう手口の巧妙さ。
やられたけれど、美味しかったからいい。
昼ご飯を済ませたあと、電車に揺られること40分、石巻の駅に辿り着いた。
写真を撮りながら、街を歩くことにする。
街のいたるところに、このように震災時の津波の到達水位を知らせる表示がある。
上の写真は、仙台空港にあった津波の水位の表示でHighest of Tsunamiという文言にもあるように、震災時の津波の最高水位を示したもので、それを空港で目にしたときにも思うところがあったが、実際に趣いた現地で目にしたそれのほうがよりリアリティがあるように思えた。
この下の表示は石巻の駅から海の方へ3分ほど歩いた場所にあったもので、まさに、この場所にこれだけの水が押し寄せたということを示している。
自動販売機の右奥が少し写っているが、ここはさらの空き地となっている。
おそらく4年半前には何かしらの建物が経っていて、そこで生活を営む人がいたのだろうと想像することは難くない。
津波は、河川を逆流して街を飲み込んだそうだ。
これは、旧北上川のほとりにある場所で撮ったもので、マンションか家かの住居の入り口付近なのだろうと思われる。
当たり前に営まれていた暮らしが、当たり前でなくなってしまったその瞬間が確かに存在したのだ。
奥の空き地には雑草がぼうぼうと長く伸ているのが写真からもわかるように、この場所がこのように更地になってからたくさんの時間が経ったことを、この草の長さが示しているだろう。
他にも少しだけ写真を撮ったので下に載せたいと思います。
オレンジの花が咲いている空き地
崩れた建物
空はまぶしいほど青い
町を散策したあと、石巻にある震災の情報館へと訪れる。
「これからどんどん変わっていきますよ」
という現地のスタッフの方の言葉が心強かった。
万物は流転する。
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今回の旅の始まりのきっかけは、ゼミで指導教官をしてくださっている教授から「それ発表してこれば?今年は宮城だよ」という言葉だった。
『ともに、おこす』
その学会は、毎年大きなテーマを掲げて行われている。
今年のテーマは『ともに、おこす』
いわずもがな東日本大震災を取り巻く様々な事象が含意されている。
今回東北の地を訪れたことの意味は、震災が「本当に」「ここで」起こったと知ることができた、この点ひとつに尽きるのではないかと思う。
テレビや新聞、ラジオなどの報道・ニュースを通して私たちは世の中の出来事を知る。
それらのメディアの役割は非常に大きい、おかげで私たちは足を運ぶことのできない場所の出来事を知ることができるようになった。
しかしそれと同時にそれらのメディアは私たちを、真実を知った「つもり」にさせる、しかもごくごく簡単に。
今回私は被災地に足を運んだ。
現地の人と話をした。
町のコンクリートの壁についた泥。
元の形状がわからないほど曲がったレール。
自分の目で見て確かめて、そこで初めてわかったことがあった。
本当にこの場所で震災があったということ。
テレビやネットで見た震災のあれこれは、ただどこか遠い星の出来事を映しているようで、私はドラマか映画を見るかのようにその報道を眺めていた。
どうにもこうにもあのときの自分にとってどうでもいい他人事だったらしい、ということにも初めて気づいた。
文章にまとまりがなくなってきて、何を言いたいのかわからなくなってきたのでそろそろ締めます。
別に、すべての人々が被災地に行くべきだとかメディアは悪者だ、と言いたいわけではない。
そのときの自分は、そう感じたというだけのこと。
別にそれを人に押し付けるでも強要することもしない。
帰りは音楽を聴いて帰ってきた。
歌詞のもつ意味合いをひとつひとつ噛み締めた。
何度も何度も繰り返し、この曲を聴く。
ひとつひとつ もうひとつと わすれて またふりだしから はじめるきぼうのうた
今日も、生きていく。
*1:歌は、開始から44秒後に始まります
「これからどんどん変わっていきますよ」という言葉(前編)
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宮城県から帰ってきました、ただいま。
今回は学会で発表するという目的のためにはるばる東北まで足を伸ばしてきました。
ひさびさに書こうという気になったので、新しくブログを開設しました。
突然なんだけれども、私は普段の生活において、不特定多数の誰かに向けて長文を書くということをしない。
なぜか。
理由は至極簡単で、ただ面倒くさいから。
普段の習慣として、個人的に日記を書くということはしているけれども、それはあくまで私的な思考メモというレベルのもので、誰か他者に読ませられるようなものではない。
誰かに向けて発信をするときには、文法が間違っていないか、てにをはは正しく使われていて、読み手に伝わりやすいものであるのか、というようにある程度の推敲を行わなければならない。
自分の想いを伝えたいときはあるけれど、その行程が結構面倒だったりする。
しかし、今回の宮城県への旅の中で自分が感じたこと、また見たことについて、もしかすると、というレベルではなく発信する義務があるのではないか、と考えたので、少し長くなるかもしれないけれど、書きます。
(前半はただの旅の思い出なので、読み飛ばしてくださっても構わないです)
結構長くなってしまいそうなので、記事をいくつかに分けることにします。
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今回の旅は本来、上にも書いたように仙台で開かれるとある学会で発表をするためのものでした。
出発の前日までてんてこまいになりながら発表の資料を作っていた。
コーヒーと菓子パンを食べ続け、始発で大学に行って終電で帰るという日が続き、正直なところ結構苦しくて、飛行機も宿もとったけど、もう休んじまおうかな、とさえ思っていた。
しかしいろんな人の協力のおかげで無事ポスターが完成した。
これは、指し棒代わりにと思って、会場のキャンパス内で拾った木(結局使いませんでした)。
学会での具体的な出来事は、この記事で伝えたいことの本筋とはずれるので、これ以上は書きませんが、指し棒として木の枝を使っていいくらいにはゆるやかな学会でした。
話を戻すと、この旅は2泊3日を予定しており、初日は予定を一日空けていた。
1日目、朝の8時半に仙台へ着いた。
2、3日目は学会で一日大学のほうにいなければならないので、この初日の時間をどのように使うか、朝の8時半の仙台空港で、母の持たせてくれた手巻きずしを朝食として食べながら考えていた。
結果的なことから先に言えば、紆余曲折を経て、昼過ぎから晩にかけての時間を私は石巻で過ごした。
当初、計画の段階では、というか当日の朝ごはんの時点においても、石巻に行こうという予定はなかったし、行くつもりもなかった。
その場所について思いつかなかったというよりは、どちらかというと選択的に「行かないこと」にしていた。
つまり、石巻に行くことを避けていたのだった。
4年前の3月11日、チャンネル回しても回しても、家や車、生活の場が流されていく映像が流れていて、そいう悲惨な状況を目にして、他人事だとは思えずに、そういうことが現実で起こっているのだと信じたくなくて、ベッドの中で一日泣いていた。
翌日は、父と服を買いに行こうという約束をしていたが、そんなことを私はしたくない、不謹慎だ、と言って部屋に閉じこもって父に迷惑をかけたことを今でもたまに思い出す。
それから、いつか石巻に行って、震災の状況、そしてそこからの歩みを見に行かなければならないと思っていたのだけれど、なかなか勇気が出なかった。
そういうことがあったという現実に向き合いたくなかった。
だから、場所が遠い、金がかかる、時間を空けられないなんていうことを言い訳にして、ずっとその問題を遠巻きにしていた。
そのうちに、そういった気持ちも時間の経過とともに薄れていって、正直言うと、すっかり忘れていた。
忘れていたのだ。
だから、空いている時間の初日、めいっぱい観光しようと思った。
空港でずんだシェイクを売る、お店のスタッフの方がばりばりの東北弁でお勧めだと教えてくれた松島へ向かう。
松島や あゝ 松島や 松島や (松尾芭蕉)
日本三景である松島で初日の時間を優雅に過ごそうと思って、海が見える芝生の広場で座り込んでいた矢先、突然に私のほうへ近づいてくる影に気が付く。
この人との出会いによって、私は石巻へ向かうこととなるのであった。
(次へ続く)