未定(仮)

大学院を休学して日々悶々と内省中

身体のこと

どうやら身体があるらしい。

そんな感覚が2016年末ごろから自分のもとに訪れてきている。

 

容姿に気を遣うことになんてこれっぽっちの価値はない!そんな意味を込め「いやあ、どうせ体は入れ物でしかないからね」と確かに私は言った気がする。

 

おしゃれをして、 髪の毛をコテで整え、 慣れない化粧をがんばり、成熟への一途を辿ろうとする高2の妹へにべもなく放たれた姉からの言葉が、当人の顔をゆがませるのは容易なことだった。今振り返ったら大変失礼な話だったと思う、ごめんね、妹…

これが家族旅行へ行った2016年10月のこと。

 

今年になってから「身体」について考える時間が続いている。別に「考える」といっても、本や論文を読んだり、ディスカッションしたわけでもなく、自分や他人の身体に意識を向けているという程度なので、うまくいえるかどうかわからないのだけれど、今日は「私と身体」について書いてみたい。

 

思えば昔から自分の身体に対するコンプレックスが強かった。

例を挙げるならば、右乳と左乳の大きさが違うことから、目が一重であること、腰幅が広すぎる、尻がでかい、手足指が短い、唇の色が薄い、胴が長すぎる…等々キリがない。すべて挙げ終わったころには朝がきてしまう。

 

こんな調子で自分の身体が好きでなかったので、今まで「身体を愛する」という意識をもったことはないし、あれだけテレビで雑誌やらで体をケアする商品や番組をやっていたにも関わらず、「身体を愛する」という発想がこの世にあるとも知らなかった。厳密にいえば、「知ってはいたけれど自分とは無縁のもの」だと思っていた。 

 

私にとって、身体のことを考えていいのは、生まれつき容姿の素敵なキラキラした子だけだったし、私なんかが身体のことを考えたり、容姿に気を遣うなんておこがましい!だめだめ絶対、という強い否定的な感情があった。

 

それは女子校育ちの過去11年間で、どちらかといえば「男性的」な役割に身を置いていたせいもあったのかもしれないなあ。「女の子になりたい!」と望む自分の気持ちにNGを出す、もう一人の自分がいたことは違いない。

 

 以前書いた この記事では、  "アイデンティティ"とか"自分事"とかムツカシい言葉を使ってぼやかしたのだけれど、 要するにこれは「女の子になりたい!」という心の叫びだった。正直にいうと、かわいくなりたいのだ。包み隠さずにいうとこんな感じ。そう、女の子になりたいらしい。

 

身体については、今はどちらかといえば「乗り物」という感じが近いけれど、昨年に妹に対していった体は入れ物だという意識は今でも持っている。ただ、昔と異なることはいくつかあって、そのうちのひとつに「諦めがついた」ということがある。

 

 よく聞くことだけれど、死ぬまでの生きている間はこの身体を使っていかなければならない。どれだけ願っても私の身体が木村文乃と入れ替わってしまうなんていう君の名的な展開はやってこない。ないない。

 

ふっと諦めがついた。最後までこの体でいくなら、大事にせねばなあ。

そういう意味で向き合う自分の体に覚悟ができたとでもいえるかもしれない。