未定(仮)

大学院を休学して日々悶々と内省中

分かち合うために、書く

私が体験をする。

 

その体験した出来事について、相手にその経験の深さや質をわかってもらうためには、どんな工夫をして伝えるのがよいのか。どんな言葉を使うといいかな、話の順序はどうしたらいいかな、話をする上でどこまで前提(その出来事をとりまく周辺の知識)を共有したらいいのかな、などもろもろのことを考える。

 

高校時代は、隣にはだいたい誰かがいた。

 

なにか面白いことが起こったとき、出来事が起こったその瞬間、すでにその出来事の「面白さ」は共有されている。その友達と一緒に笑ったり、一緒に怒ったりする。そして、あとからふり返って「あのさっきのやつ、マジで笑えたよね」と言う。「あのさっきのやつ」といったら、わかるのだ。面白さを伝えるために言葉を尽くす必要はない。「あのさっきのやつ」で、あなたと私のあいだに同じ経験が浮かび上がってくる。今思えばなかなか贅沢なことだったなと思う。「あのさっきのやつ」で同じ出来事が共有できるって、なにそれ、最高やないか。

 

そんな感じで高校時代には隣にいつも誰かがいたから、経験を知ってもらうために「いかに伝えるか」みたいなことを考えることはなかった。(ひとたび家に帰って、今日あったことを母に伝えようとしたときにはとても苦労したんだけれど)

 

そして、大学院生になった今、状況は180度変わった。誰かと一緒に何かするみたいなこともほとんどなくなって、一人で行動することが多くなった。面白いことがあったときにも、ひとりでふふって笑うしかない。

 

咳をしても一人

笑っても一人

泣いても一人

 

これは結構寂しい。知ってほしい、この!おもしろかったこと、聞いてほしい…。そうなると、経験したことをわかってもらうための適切に語るスキルが必要となってくるのだ。「ふふっと笑った」出来事みたいな微妙なニュアンスであればあるほど、その繊細なニュアンスを表現する言葉探しはむずかしくなる。

 

べつにふふっと笑ったことについては伝わらなくってもいいんだけど、もっと気持ちの熱量の大きい、特別な出来事。これはぜひ聞いてほしい、伝えたい!みたいな気持ちになるものは違う。例えば、先日あった演劇の公演。私にとってあの公演ははじめて運営サイドとして関わったもので、とても特別な経験だった。

 

この特別な経験を家族に知ってほしかったのだけれど「伝わりきらなさ」みたいなものには苦労した。

 

相手からすれば茫茫なる語りを聞かされて迷惑なことかもしれないけれど、年々この「分かち合いたい」という欲求は高まってきているみたいで。だから文章を書くのかもしれない。

 

そして、最近のもっぱらの関心といえば、逆のベクトルのことで、誰かが体験した出来事を知るために一番よい方法は何だろうなあ、ということについて。今までずっと考えてきたのは「いかに伝えるか」だったから、反対方向のことだといえる。長くなってきたのでこれはまた今度の機会にでも。

 

さいごに、ふふっと笑ったことについて書いて締めようと思う。奈良の春日大社へ続く参道を歩いていたときのことだった。みっつ並んだまんまるの鹿のうんこを発見した。割と大きめのかたまり。お行儀よくみっつ並んでいることが妙におかしくて、ふふっと笑った。

 

ほら、なかなか伝わらない。伝えるのはむつかしい、そして奥深い。